江戸の流行菓子、七五三の千歳飴

歳時記

11月15日は七五三。街なかで晴れ着姿の子どもを見かけると、かわいらしさについ笑顔がこぼれます。どの子も決まってごきげんなのは、手にしっかりと握られた千歳飴のせいでしょうか? 日本中の子どもたちを喜ばせている千歳飴ですが、その起源には諸説あるのだとか。素朴で愛らしい飴の謎を辿ります。

平安時代にさかのぼる七五三のルーツ

男児は3歳と5歳、女児は3歳と7歳の年に行われる七五三。そのルーツとされるのが、平安時代に行われていた「髪置き」、「袴着」、「帯解き」という別々の儀礼です。「髪置き」は頭髪を伸ばし整えること、「袴着」は男児が初めて袴をはくこと、「帯解き」は女児が大人用の帯をつけること。これらは幼児の死亡率が高かった当時、子どもの厄を祓うだけでなく、その成長を確認し共同体の一人に迎えることを意味する重要な行事でした。江戸時代になると庶民の間にも広まり、三つの儀礼を総称して「七五三」と呼ばれるように。一方、七五三とセットの存在である千歳飴の起源には、いくつもの説があるようです。ここでは代表的な逸話を紹介しましょう。

千歳飴はお江戸生まれの縁起物

ひとつ目は、元禄・宝永年間(1688〜1711年)、浅草の七兵衛という飴売りが、長寿をイメージさせる「千年飴」または「寿命糖」という名前の飴を、長い袋に入れて売りだしたという説。ふたつ目は、元和元(1615)年、大坂の商人・平野甚左衛門が飴の販路拡大のため江戸に出て、浅草寺の境内で「千歳飴(せんざいあめ)」を売りはじめたという説。3つ目は、東京の神田明神で売られていた「祝飴」が、お参りの子どもたちに縁起物として配られるようになったという説。しかし詳しいことは分かっておらず、どれが起源なのかは謎のまま。間違いないのは、「健康で長生きしますように」という願いが、子どもたちが大好きな飴と結びついて広まったということです。

飴が江戸っ子に愛された背景とは

江戸時代にはさまざまな随筆や浮世絵に描かれるなど、まさに大ヒット商品だったことが伺える千歳飴。しかし当時、砂糖は貴重品のはず。これほど親しまれた理由は、飴の材料や製法が現代と違うからと考えられます。この時代に広く食べられていた飴は、米や麦芽のでんぷんを糖化させた“水飴”や、それを固めたもの。さらに生産方法に工夫が加えられ、原料に安価な米屑や酒粕を混ぜた飴も登場しました。千歳飴も、庶民でも手が届く行事食、さらには子どもが喜ぶ甘いお菓子として江戸っ子に愛されたのでしょう。戦後の経済成長期に日本人の生活が安定すると、七五三の風習は全国へ広がり、同時に千歳飴もなくてはならない存在となったのです。

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