年中行事には、それぞれゆかりの和菓子があります。こと五節句では、桃の節句の菱餅や端午の節句の柏餅など、いまもおなじみの和菓子が思い浮かびますが、さて七夕は? 実は、行事と結びついた和菓子はきちんと存在します。しかもお中元の定番の、あの食べ物と深い関係があるとか。ユニークな食の変遷を辿りましょう。
そうめんの原型は疫除け菓子
七夕といえば思い出す織姫と彦星の悲しい恋物語は、中国から伝わりました。糸や針仕事を司る織姫にちなみ、二人が年に一度会える7月7日に裁縫の上達を祈願した「乞巧奠(きっこうでん)」という行事と、巫女が水辺の小屋に籠って織りあげた機(はた)を神に捧げる日本古来の「棚機津女(たなばたつめ)」の伝承が結びつき、七夕の行事になったとされています。平安時代には技芸上達を願う年中行事として定着。その際に供えらえていたのが、「乞巧奠」と一緒に中国から伝わった疫病除けの菓子「索餅(さくべい)」でした。この索餅こそ、現代では夏の風物詩としてすっかりおなじみの食べ物・そうめんの原型。両者の不思議な関係を紐解いてみましょう。
捏ねて伸ばして、細長~く進化
索餅の「索」は紐などをより合わせて縄状にすること、「餅」は小麦粉を練った食べ物のこと。小麦粉に米粉や塩、味噌のような発酵調味料などを混ぜて細く延ばし、よって揚げた索餅は、ツイストドーナツのような見た目の菓子でした。平安から鎌倉、そして室町へと時代が移り、食べ物の製造技術が上がると、索餅の作り方、つまり小麦粉を何度もひねりながら延ばしていく「手延べ」作業が進化し、そうめんが生まれたとされています。江戸時代には、京都の公家だけでなく徳川将軍家の七夕の祝い膳の献立にもそうめんが登場し、その存在が広く一般にも知られるように。町人たちの間にも、七夕にそうめんを食べ贈り合う風習が誕生しました。
「ちなみに索餅の写真を見て、現在も長崎の郷土菓子として親しまれる“よりより”または“唐人巻”を思い出した人もいるのでは? こちらも古くは同じ索餅がルーツで、江戸時代に南蛮船・唐船によって伝えられたといわれます。
受け継ぎたい、健康への切なる願い
7月7日は、全国乾麺協同組合連合会により「そうめんの日」に制定され、索餅の影は薄くなりました。しかし、奈良県の名物・三輪そうめんの業者のなかには、いまも索餅の別名である「麦縄」をモチーフにした菓子を販売しているところがあります。貴重な麦縄菓子をつまみつつ、過去と現在を繋ぐ食の変遷に思いを馳せるのも楽しいでしょう。ちなみに、七夕にそうめんを食べる理由は所説あり、細い麺を天の川や織物の糸に見立てたといわれることも。しかし元を辿れば、人々の健康への祈りが込められた菓子がルーツなことに変わりはありません。今年の夏ギフトは「美味しいもので英気を養って」と、索餅ならぬ和菓子を贈ってみてはいかがでしょうか。
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